とあるTV番組からこんな言葉が聞こえた。
「恥ずかしいっていう感情なんて無ければいいのに」。
たぶんタレントのYOUさんだったと思う。前後の文脈はあまり分からなかったけれど、彼女なりに「恥ずかしい」に対して問題意識があったのだろう。この言葉が非常に気になった。
なぜこの言葉が引っかかったのか、というと、私が日頃から何となく考えているテーマと近いからなんだと思う。
例えば、カラオケで一番初めに歌う事。例えばセミナーなんかで一番初めに手を挙げて質問する事。例えば自分の考えている事についてブログを書くこと、YouTubeを更新する事なんかもハッキリ言ってしまえば恥ずかしい。人前で拙い英語を喋るなんてのも、人によっては恥ずかしいと思う。SNSで自分の意見を発信する事が恥ずかしい人もいる。
でも上に挙げた事のすべてが、別に他人にとっては大した問題ではない。大した問題ではないどころか、場合によってはその場を救ってる事もある。
それでも恥ずかしいという感情は浮き出る。
どこからが恥ずかしいのか?
じゃあどこからが恥ずかしいんだろう。なぜ恥ずかしいんだろう。恥ずかしいという感情とどう向き合えば良いんだろう。というのが私の問題意識。
私の場合、あくまで私の場合だけど、SNSで文字を発信する事は恥ずかしくない。ブログも恥ずかしくない。でも写真や動画で自分の顔が映るのは結構恥ずかしい。(とは思いながらも顔は出してるけど、本当は極力出したくない)
スポーツ観戦をしている観客席の自分がDAZNやバスケットライブに抜かれるのなんかはもうメチャクチャ恥ずかしい。
TVにも過去何度か出たことがあるけど、基本的に全部恥ずかしい。
パーティーで、初対面の人と喋る事なんかも恥ずかしい。
さて、問題は「なぜ恥ずかしいのか」だ。
恥ずかしさには環境が影響するんじゃないかというのが、ぼんやりと考えている私の仮説。
例えば、小さい頃から質問や疑問があれば真っ先に手を挙げる人だらけの環境で育ったならば、恐らくセミナーで真っ先に手を挙げる事は恥ずかしくないんだろう。例えば、知り合いがみんなYouTubeで顔出しをしているなら、自分がYouTubeで顔出しをする事も恥ずかしくないんだろう。
そんな気がする。
つまり、自分の行動や感情、意思決定は思ったよりも”周りに左右されてる”のではないか。
私は自分の行動や意思決定は自分がしている。と思っているのだけれど、自分の意思決定は想像以上に周りに左右されているのではないか。
これはちょっと問題だぞ。という風に思えてくる。
「自分がどうこう」よりも「どんな環境にいるのか」によって意思が左右される事って、何となく寂しいし、嫌だ。
恥ずかしいを超える
では、私の最近の問題意識と改めてこのブログで綴った事を重ねてみよう。
「これをやるのは恥ずかしいな」という場面に出会ったとする。
その時はまず、自分の美学と重ね合わせてみる。”そもそもこんな事をやるのはダサいから恥ずかしい”なのか、”本当はやりたいけど何となく周りの空気的に恥ずかしい”なのか。
その分岐を自分の中で判断する。
前者なら、自分の美学に反する事なのだろう。そもそもやらない方がいいし、その「恥ずかしい」という思いは捨てない方が良い。自分の矜持を優先させた方が良い。
しかし後者ならば問題だ。自分の意思決定を、環境によって阻害されていると考えていい。その「恥ずかしい」はただの同調であって、あなた自身を集団の均質に落とし込む罠とも言える。
後者の「恥ずかしい」に出会ったなら、むしろチャンスだ。自分の意志が環境に打ち勝つチャンスなんだ。
その「恥ずかしい」は私の問題ではない。環境のせいだ。大丈夫、気にするな。
30歳頃からは、そう思うようにしている。
最近は「恥ずかしい」から一歩踏み出す度に成長を感じられるような気がしている。