今日、かふぇじんに来てくれたお客さんと「サッカーのブログを書くこと」について話した。
それが改めて自分の行動や動機を見直す機会になったので、ここに今の考えを書き留めてみたい。
「解釈」と「真実」の話
なぜ自分がサッカーのブログを書くのか。たぶんこのテーマについて書いた事は無い。
なんで自分がサッカーのブログを書くかというと、それはサッカーの魅力とも繋がる話ではあるが「このゲーム・このプレーについて、こういう解釈をしている」という「解釈」の話が好きだからだ。私は「見立て」という言葉をよく使うが、今回は「解釈」で統一しておく。
「解釈」と「真実」は異なる。
「解釈」とは「どう見たか?」という話であり、それは100人が見れば100通りの解釈があると思う。そしてその「解釈」の多様さこそがサッカーの魅力の一つだとも私は思っている。
一つのプレーに対して、プレイヤー22人+レフェリー+コーチングスタッフ+サポーター、そしてボールボーイなどが絡むのがサッカーというゲーム。
ならば一つのプレーに対する真実には変数がメチャクチャに絡んでいるはずである。たとえプレーしている選手であっても「真実」にはそう簡単にたどり着けないと思う。(もちろん「こう考えてプレーした」という重要な一つの意思や判断はある。)
例えば昨日の上田綺世のゴールには、ゴールを決めた綺世とアシストしたピトゥカ、ピトゥカにボールを渡した常本、そして相手DFやGKが関わっているように見える。
しかしこのゴールの「真実」には、ボールから一番離れたクォンスンテが関わっていると思うし、レフェリーもコーチングスタッフも関わっていると思う。もしかしたらサポーターも関わっているかもしれない。
その「真実」を解き明かすのは極めて難しい。監督や選手でさえ難しい。私はそう思う。その変数の多さ・複雑さこそがサッカーの魅力の一つだと思う。(選手や監督は重要な変数を持ってるので、真実から近い場所にいるとは思う)
「真実」を語るのは難しい。だから「解釈」を話したいのである。
「私はこう見た」という極めて個人的な解釈だが、その解釈にこそサッカーという自由度の高いゲームの深みが出る。
逆に言えばサッカーというゲームにおいて真実があるかのように話す人がいれば注意した方がいいと思う。その人はサッカーの変数の多さを舐めてる。
モデルは映画批評
私がやっている行為のモデルがあるとすれば、映画批評や映画評論の類のもの。
「その映画をどう見たか」という営みは映画というカルチャーを大きく発展させたと思うし、ファンの間で重要視されてきた営みだと思う。(一部の人には忌み嫌われる営みだとも思うが)
「解釈」に正解は無く、どこまでも自由である。作者や監督に意図があったとしても、アウトプットされたものが「そのように見えた」場合は解釈が間違っているとは言えない。作品と作者は別の存在であるはずだ。
サッカーも同様だと思っている。
いや、特定の作者の意図が無く流動性と戦略性の高いゲームだからこそ、映画よりも更にドラマチックだと思う。
その自由さや流動性・戦略性こそが私が取り憑かれているサッカーのゲーム性である。
解釈の多様性が増せば増すほどにそのカルチャーは隆盛していくと思う。
なのでサッカーに詳しいとか戦術がうんたらとか経験があるとかは関係なく、見る人が自分なりの見立てを持ってサッカーについて語り合えたら最高だなと思う。
私はサッカーをプレーしている時、試合の後に現象を振り返る時間が好きだった。それぞれの解釈をぶつけ合う、あるいは磨き上げてより良くしようと試みる時間は魅力的で尊い時間だと思う。その思いは「見る側」に回った今も変わっていない。