批評エンタメとアラーノについての後日談

最近考えている事がある。「自分にベクトルを向ける」のか、「他人にベクトルを向けるのか」という話。今回はその話と、具体例として「ザーゴはなぜアラーノを使い続けるのか」の後日談。

ベクトルを向ける方向

あなたは自分にベクトルを向けるタイプだろうか。他人にベクトルを向けるタイプだろうか。

私は常々こう思う。

「自分にベクトルを向けてる人」って、魅力的に見える。

「他人にベクトルを向けてる人」って、少し寂しく見える

何故そう思うのか。私なりに解釈すると、「コントロール出来る範囲」と「コントロール出来ない範囲」を理解してるか否かという問題と繋がる。

分かりやすく書くなら、自分の事はコントロール出来る。他人の事はコントロール出来ない。それを根本の所で理解出来るか否か。

他人を自分の思い通りにコントロールするのは極めて難しい。(だからこそコミュニケーションは面白いとも言えるのだが)

それを理解出来ない人は、いつまで経っても人にベクトルを向け続ける。

これらの現象はInstagramとTwitterの特性の違いにも繋がるかもしれない。Instagramは自分の事を語る人が多い。Twitterは他人の事を語る人が多い。

Twitterを見ていて時々、なんとも言えない嫌な気持ちになるのは、他人にベクトルを向けてる人が多いからではないかと思う。若い人がInstagramを好む理由でもあるのだろうと思う。

特にコロナの状況では「◯◯をするのはダメだ」とか、「◯◯はやっちゃいけないのに」とか、そういうSNS警察が沢山出てきてしまう。

そんなSNS警察を更に取り締まろうとする「SNS警察警察」が出てくると、負の連鎖は永遠に終わらない。他人にベクトルを向け続ける限り、くだらない争いは絶えない。

プロレスとして互いに言い合うユーモアを多くの人が持っているのであれば面白いのだが、そうではないのが現実だったりする。

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他人にベクトルを向ける時の最低限のルール

とは言え、私自身が前項で書いた事(自分に向けてベクトルを向ける事)だけをやっているかと言うと、決してそうではない。

例えばサッカーのブログやYouTubeなんかは、人のプレー(サッカー選手のプレー)について、あーだこーだと言っているので、他人にベクトルを向けている事に他ならない。

何かを批評的に見たり話したりするのは、むしろ私の得意ジャンルとも言える。私は元来、Twitterが得意なタイプの人間だと思う。

ただ、私は他人にベクトルを向ける時は、最低限のルールを持ちたいと思っている。

それはベクトルを向けた相手に対して愛情を持つこと。誠実であること。

これを最低限のルールとしている。

「当たり前だろ」と思われるかもしれないが、出来てる人は存外に多くない。

批評が面白くなるか否か、エンターテイメントとして成立するか否か、というのは、まず”愛情”や”誠実さ”をクリアした先にあると思っている。

つまり、愛情も誠実さも持てない相手に向けて何かを語ったりはしない。

それは私が考える「正しい他人へのベクトルの向け方」ではないからだ。小便正論にしかならない事は明白だからだ。

愛情も誠実さも持てない相手に向けて何かを言って、それを皮肉のエンタメとして昇華出来るのは一部の天才だけだと思う。マツコ・デラックスとか。

批評をエンタメにするポイントとアラーノ仮説

「他人にベクトルを向ける」上では愛情や誠実さが前提であるとして、批評をエンタメにするポイントとは何だろう。

1つ例を出して考えてみる。

例えば先日公開した、「ザーゴはなぜアラーノを使い続けるのか」というYouTube動画は、Twitter上でもYouTube上でもけっこう反響があった。

この動画を見た方から「面白かった」や「腑に落ちた」というコメントを沢山いただいた。私が組み立てた見立てを、多くの人が面白いと言ってくれたのだ。

このコンテンツを作る上でまず気を付けたのは、ザーゴにもアラーノにも愛情を持っているという事。それは前提。

その上で、何をどう語れば批評やエンターテイメントとして価値があるのかを考えた。

私は「アラーノという選手は評価が分かれそうだな」という感覚を持っていた。それを更に言語化してみようと思った。

言語化するだけでは批評やエンタメとしては不十分で、更に”視点”や”ロジック”を加える必要があった。

その”視点”が「ザーゴがアラーノを使い続けている」という事実で、”ロジック”がアラーノが他の選手とは明らかに違うポイントを探してストーリーにする事。

もしも「アラーノしかやっていないプレー」があって、他のプレーが今ひとつなのに起用され続けているならば、ザーゴはそのプレーを気に入っているのではないか。というロジックは成立する。

これが私の見立て(仮説)だ。

もちろんこれはロジックで考えた仮説なので、他にも仮説を組み立てる事は出来る。

例えば「ザーゴはただ単純にコンディションの良い選手を起用していて、アラーノはコンディションの管理が良い」という可能性は十二分にある。

その場合、私の見立ては間違っている事になる。でもそれで良い。見立てた時点で「確からしい」ロジックがある事には価値がある。

選択をする時点では正解か間違いかなんて誰にも分からない。みたいな事を、『進撃の巨人』のアルミンも言っていた。

何も分からない時の心の拠り所になるのがデータや現象、そしてロジックだ。

サッカーの監督やコーチがやっている作業はそのような事だし、ビジネスでも同じだ。現象やデータから確からしい事(仮説)を探し出して、あとは実行して改善するだけだ。

サッカーにおいて「確かなこと」なんて、ほとんど無いと思っている。だからこそサッカーは面白い。平面にしか見えなかったサッカーが立体的に見えるような、そんな発信をこれからもしていきたいと思う。

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