何かを褒めるために、何かを攻撃しなければいけない。何かを上げるために、何かを下げなければいけない。そのように見える言動がさまざまな所で見受けられる。
今回はその事について。
相対的にしか好みを判断出来ない
「何かを褒めるために、何かを攻撃しなければいけない」の具体例を上げよう。
自分の好きなJリーグクラブの素晴らしさを語るために、他のJリーグクラブを攻撃する人がいる。
好きなサッカー選手の素晴らしさを語るために、他のサッカー選手を貶める人がいる。
誰かの仕事を褒めるために、他の誰かの仕事を貶める人がいる。
何かの映画を好きだと語るために、他の映画を貶す人がいる。
私はそのような人や言説と出会うたびに、とても残念な気分になる。
その「好き」や「素晴らしさ」は相対的に判断されたものなんだな、と感じる。相対的に自分の好みを語りだすと、とても危険だ。
例えば私は、鹿島アントラーズや水戸ホーリーホックが好きだ。しかしその「好き」は、相対的に決まったものではない。他のJリーグクラブが格好悪いから、方針が嫌いだから、鹿島や水戸が好きなわけではない。
鹿島と水戸が好きだから鹿島と水戸が好きなんだ。
だから、これから他のJリーグクラブを好きになる可能性だってある。それで良いんだ。
二極化すると簡単に感じる
おそらく、「何かを褒めるために、何かを攻撃しなければいけない」という言説には罠があって、事象を二極化する(2つに分ける)と話を分かりやすく感じてしまうのだ。おそらく人間は。
賛成か反対か。敵か味方か。男か女か。右か左か。金持ちか貧乏か。北か南か。お金かやりがいか。
そのように二極化すると、物事が単純化するように感じるのだ。大手メディアや政治家は、そのような方法を使って民意を動かしてきた過去もある。
しかし、現実には世界はそんなに簡単には出来ていない。貧乏とも金持ちとも言えない人がほとんどだし、右にも左にも属さない人は多い。
世界は白と黒の2色ではなく、数多のグラデーションで成立している事を理解しなければならない。
想像力と表現力
「何かを褒めるために、何かを攻撃しなければいけない」タイプの言説と出会うたびに、私は残念な気分になるのだけれど、その時は「これを発信した人は想像力と表現力が足りないのかな」と思うようにしている。
想像力というのは、とても大切だ。
簡単に情報発信を出来るからこそ、想像力の有無は「人を傷つけるか否か」に大きく関わってくる。
あなたが自分の好きを語るために貶めた「何か」を、とても好きな人がいる。応援している人がいる。その想像力すら持ち合わせていないのだろう、と思う。これは自分自身への自戒でもある。
想像力が働きすぎると何も喋れなくなる事もあるのだけれど(苦笑)、最低限の想像力は持ち合わせた上で表現を続けていかなければいけない。
「何かを褒めるために、何かを攻撃しなければならない」言説には、想像力と同時に、表現力の乏しさも影響している。
自分の「好き」を、尖った表現や刺激的な言葉を使わないと表現出来ないのだ。これは表現力が足りないから起こりうる。
私の好きな小林賢太郎の『僕がコントや演劇のために考えていること』という本にも、刺激的な言葉を使って表現する事への警鐘が鳴らされている。
「面白い」や「好き」を作るために、何かを攻撃する。何かを貶める。
それはインスタントに反響が来る方法かもしれないけれど、知性のある表現方法だとは思わない。私はそれをやらずに、知性とユーモアをフル稼働して生きていきたいと思う。
知性のある人は、攻撃的な言葉や差別的な表現を使わなくても「面白い」を作れる。それこそがユーモアであり、表現する事の可笑しみであるはず。
人の振り見て我が振り直せじゃないけれど、私はそうやってユーモアを作っていきたい。
— ロニー (@ronnie_ibaraki) December 15, 2019