2019年に見た映画の中で、一番印象に残った映画を紹介したい。
映画の名前は『家族を想うとき』。原題は『Sorry We Missed You』。監督は、パルムドールに輝いた『わたしは、ダニエル・ブレイク』のケン・ローチ。
この映画を鑑賞した後に、私はずっと考え込んでしまった。我々が生きているこの社会は持続可能なシステムになっているだろうか?私は働いているのだろうか?それとも働かされているのだろうか?
83歳のケン・ローチが、引退を撤回してまで我々に届けたかったメッセージは何なのだろうか?
この映画を見て、現代を生きるそれぞれの人が自問自答をしてほしい。そんな映画だった。
あらすじ
『家族を想うとき』のあらすじを簡単に紹介。以下、公式サイトから引用させていただく。
イギリス、ニューカッスルに住むある家族。ターナー家の父リッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意。「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。
母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。リッキーがフランチャイズの配送事業を始めるには、アビーの車を売って資本にする以外に資金はなかった。遠く離れたお年寄りの家へも通うアビーには車が必要だったが1日14時間週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。
介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家にいる時間がなくなっていく。16歳の息子セブと12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかり。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、子供たちは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。
この映画で提起されている問題はいくつかあるな、と感じた。
1つ目は「社会のシステムと労働」について。2つ目は「労働と家族の関係」。
社会のシステムと労働
まず1つ目。社会のシステムと労働についての話。
この映画の主人公・リッキーは宅配会社とフランチャイズ契約をしたドライバー。「個人事業主」として働く。あくまで仕事を受注するフランチャイズ契約で、雇用の契約を結んでいるわけではない。
彼は借金を持つ生活から逃れるため、家族と安定した生活を送る持ち家を買うために、「すべては自分次第」の言葉に乗りフランチャイズの宅配ドライバーとして働く事を決めた。
しかしこのフランチャイズの宅配ドライバー、「個人事業主」とは名ばかりで、自分が休む時は替わりを見つけなければいけないし、替わりを見つけられない時は罰金として1000ユーロを支払わなければいけない。
あくまで映画の中の話ではあるが、この労働の仕組みは実在の社会にも数多く存在している。
リッキーは、いわゆるギグワーカーだ。
※ギグワーカーとは、パソコンやモバイル端末などを使い、オンライン上で「単発の仕事」を受けるワークスタイル
リッキーは、ECサイトで購入された商品を各家庭に必死に運ぶ。時間指定・日にちの指定をされている事もあるので、時間通りに運ばなければいけない。配送量は多いが、1分でも遅れると罰金が待っている。
そうやって必死に運ばれた荷物である事を、「運ばれた側」の多くは認識していない。
Uber Eatsでの出来事
私自身、「便利だから」という理由で、AmazonやUber Eatsを利用する事がある。
この映画を見る前、Uber Eatsを利用した時の事。
配送のドライバーが私の家に来る際、道に迷ってしまったようで、配達が予定より15分ほど遅れた。
私は配送の遅れは気にかけずに「ありがとうございます。」と言ったのだけれど、配送してくれたドライバーの彼(外国人の方だった)は必死に「遅れてゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と何度も何度も私に謝った。
そんなに謝らないでほしいな、と思いながら、なんとなく彼の事に想像力を働かせてみた。
なぜそんなに謝る必要があるのだろうか?
遅れた事を心から謝罪したいのだろうか。
Uber Eatsは利用者がドライバーの評価をする。その評価を下げたくないからだろうか。
外国人ギグワーカー向けのサイトに「日本では遅れたらしっかり謝れ」と書いてあるのだろうか。
私には分からない。分からないけれど、「この状況」には疑問を持ちたいと思った。必死に謝る彼から届けてもらった食事の味に疑問を持つ人でありたいと思った。
家族と労働の関係
『家族を想うとき』の話に戻ろう。
リッキーは家族のために必死で働く。1日14時間・週6日も働く。当然、10代の2人の子供たちと一緒にいる時間は少なくなる。
それでもリッキーは「家族のため」に、必死に働く事を選択した。
貧困から1世代で抜け出す事は難しいし、リッキー自身がそれを理解しているからだ。息子や娘を「自分のようにしない」ためには、自分が必死に働くしかない。
リッキーの仕事では、家族の一大事があっても仕事に出なければいけないし、息子が警察に捕まった時でさえ仕事を休む事は許されない。
この労働のスタイルでは、家族のための労働が、家族のためにならない。
この問題はとても根深い。
この未来が待っている事が分かったならば、リッキーは違う仕事を選んだ事だろう。しかしリッキーの出来る仕事は恐らく限られており、どの仕事を選んでも「ほどほどの労働をしながら家族を養っていく」という両立は不可能なのだと思う。
そのように思考を展開させていくと、「リッキーのような人は、家族なんて持たない方が幸せじゃないか?」という考えに至る。
リッキーがリッキーらしく、幸せに生きていくためには、家族を持つ事はあまり合理的ではない。
そんな社会は絶対に問題がある。
人が家族を持つ権利さえ、この社会は許容してくれないのかもしれない。
もしも、これらの事象に少しでも思い当たる節があるならば、その社会は持続可能とは言えないはずだ。83歳のケン・ローチが鑑賞者に訴えたメッセージを、ぜひ多くの人にも考えてもらいたい。
ちなみに、『家族を想うとき』のリッキーにはモデルがいるらしい。2018年に亡くなった、宅配ドライバーとして働いていたドン・レーンさん。
そのニュースはこちら↓から。
https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20180209_472073/